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エモとか

他人のひとつひとつの生の体験に「これめっちゃエモい」というコメントが付いているのを見てしまって、エモに関してなんかもうみんな語りまくってて、まだそんなところにいるのかよって思われるかもしれないけどいちおう自分が感じたエーという感覚を残しておこうと思いました。(まあ体験したのもコメントを付けられているのも私ではないのですけど)

もううんざりなんだよというわけではない。各人の生のエモ体験がうんざりなわけあるか!たぶんだけどそう言った人もエモ体験そのものというよりむしろそんな茫洋とした誰かの空気や匂いや温度の体験を「エモ」に帰してわかった気になっている態度の方にうんざりなんじゃないかと思ったけど。ちがうかもね。リアルタイムに生きているのになにも追えてはいないので、違うかもしれませんけど、ここは私のブログなので適当なことを書かせていただきますね(良くないね~)

喫茶店のクリームソーダ、エモ!の気持ち自体は誰にもうんざりされるいわれなんてない。でも喫茶店のクリームソーダですよぉ、と押し付けられたら一息に唾棄すべきものになるじゃん。ならねか。エモというめちゃくちゃ個人的な体験をなんで全体化しなきゃなんねーんだ。共通の集合を表現するための計器くらいにしとけな??な??と思う。

最初のところに戻ってくるんですが、誰かの個人的な体験にそれめっちゃエモじゃんとコメントしたところでそのエモーショナルな体験はお前のものにはならないので、そういうときには黙って同じことをしてみて(状況によっては難しいかもしれないけれど、せめてなるべく真似をして)、「これやっぱめっちゃエモかったな」と自分で感じてから「これやってみたけどめっちゃエモかった」とコメントしたらいいんでないか。実際にやったらエモですねという側ではなくなるかもしれないけど。

難しいのは関係性で、クリームソーダ1杯ならともかく関係性におけるエモって真似できるものではないから結局「これめっちゃエモですね」ということでしかほとんど所有(の真似を)できないんだと思う。もしかしてだけど、関係性に他を見出すかんじの倫理学ってそういう所有ができないものに希望を見出しているのかな。どうなんでしょう。希望とかは別に関係ないか。今回は関係性のエモの話ではないので気にしないことにします。

別に誰かが何かに対して「超エモいって感じ~」で終わったところで私の人生に何かが起こるわけではなくツンケンする必要はないんだけど、多分対象になった人の奮闘やその場の感情を棚上げしてエモ事象だけ見ている感じが気に食わないんだろうと思う。でも真面目な場で問題提起するような気力や勇気はないのでブログでくだを巻いています。

たとえ結論がエモ~い!だとしても、苦闘を無視しないような人がいればそれはすげぇなあと思う。

おわり。

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