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02. ア・ピース・オブ・ピース

「よ、長物!」

不意に名前を呼ばれてつい振り返ってしまった。ちょうど講義終わりの帰り道で気が抜けていたのもあるし、この後の予定に浮かれていたのもある。僕は目が合ってしまった人物に向かって思いきりため息をついた。当然のように相手は眉をつり上げる。

「なんだその態度は! センパイに向かってなオマエ」
「はあ、すみません」

まあいいや、とさっぱり切り捨てた自称センパイは、僕の投げやりな態度を気にした風もなく話を続けた。こういうところが彼の付き合いやすさだと思う。

「今日はな、このあと合コンが」
「急ぎますのでさようなら」

歩きだした僕の肩を、自称先輩が背後からがっしりと掴んだ。怨霊めいている。

「マジで人数足りねンだ! お前みたいないいヤツ止まりの男がいるとちょうどいいんだって!」

それを本人に言うのは一般的にはとても失礼なことだと思う。僕は嫌いではない。なにせ分かりやすい。

「先約があるので失礼します」

だが、それとこれとは別のことだ。にっこり。背後のすすり泣く声を無視して、僕はいつもの公園へと再び歩きだした。

火曜と金曜の夕方、ハルコちゃんはたいてい高校近くの公園でゲームをして遊んでいる。ときどき不安定な膝の上で宿題をしていたり、砂場で遊ぶ子どもたちをぼんやり眺めていたりもする。部活の関係なのか習い事でもしているのか、火曜と金曜以外に公園で見かけることはない。

僕と彼女の間には、夜になる前に必ず解散するという暗黙の了解があった。つまり、彼女と会うためには誰に声をかけられても(たとえセンパイ相手でも!)断固として無視しなければならない。火曜日と金曜日に限り、僕は公園へ向かうマシンと化すのだ。人材確保のため学生を狩猟せんとする諸センセイがたの罠をかい潜り、合コンの人数合わせにと足元にへばりつく自称センパイも蹴散らして、ひたすら真っすぐ、ただ真っすぐに進む。男どもを蹴散らし続けて数ヶ月、ついたあだ名は「妙大の重機関車」。命名した人間が本物の重機関車を見たことがあるのかは知らない。
火曜、自称センパイをはじめとするあまたの怨霊を振り切って向かった公園に、しかして彼女はいた。

「ナガモノ」

公園の青くて硬いベンチにぐだりと身を預けた女の子から、携帯ゲームの画面がひらりとこちらに向けられる。画面いっぱいのゲームオーバーだ。

「やっぱだめだぁ」
「今度はどうしたの、ハルコちゃん」
「壁とモンスターに挟まれて死んだ」
「圧死ってこと?」

あまりにもダイナミックなゲームオーバーの理由に笑いながらゲーム機を受け取り、かわりにキャンパスバッグを預けた。ゲームに詳しいわけではないが、買ってくる彼女より僕のほうがずっと上手い。「ん」ハルコちゃんは当然のようにそれを抱え込む。見えやすいようにゲーム機を低めの位置に持ちかえると、ちらりと感謝の視線を向けられる。僕はなにも言わない。ハルコちゃんも何も言わないが、僕の膝にパインアメを一つのせた。

ハルコちゃんがどうしても倒せないという敵を攻略してゲーム機を返す。ハルコちゃんはまたストーリーに没頭し始め、僕はその隣でうんうんと唸り声をあげた。

「自分がこんな薄情だとは思わなかったな。知ってはいたけどね」
「がんばれぇ」

がんばれ、と言いながらハルコちゃんはゲームに夢中である。僕のぼやきなどは絶対に聞こえていない。
身じろぎするたび、ほのかに制汗剤の香りが漂っていた。暦の上ではすでに夏。脳裏に桜の葉が青々と茂った校庭と、夏の教室の匂いが蘇る。風の色さえ思い出せそうだった。

「雪平……雪平」

かつてのクラスメイトの顔も名前もいつの間にか曖昧になっていた。そのことに気が付いてすらいなかったのだから、薄情が服を着て歩いているようなものだ。
「このあいだ見せてもらった箱」

もらったでしょ。その呟きが僕の心に夜空を思い出させた。知らず踏みつぶしてきた心のひとつ。箔押しの星がきらめく化粧箱を思い浮かべる。まつげの長い、涼やかな瞳の。

「雪平京子だ」
「おそーい。でもえらーい」
「はい……」

雪平京子は、いつかの冬に夜空の色をした箱をくれたクラスメイトだった。コレクションしている箱をいくつか見せた折、ハルコちゃんもその箱に惹かれたらしい。しかし、贈り主を覚えていないと言ったらたいそう呆れられた。ウンウンうなってようやく思い出した名前も、いつも海馬の手前に置き忘れてしまうようでなかなか記憶に結びつかない。

薄情を反省した僕はハルコちゃんの助けを借りながら友だちづくりの修行中である。まずはいまも身近な元クラスメイトの名前を覚え直すところから。雪平を筆頭に、クラスメイトのほとんどは同じ大学へ進学している。ハルコちゃんは「ナガモノがいいなら覚えてなくてもいいんじゃない」と僕に告げた。突き放されたわけではないが、興味津々という訳でもない。畢竟、これは僕の問題だ。

他人と嗜好が違うのだと気が付いたときから、僕はいつも焦っていた。人を見て、真似をして、どうにかみんなと同じまともな顔をし続けていた。いまになって雪平を、上河原を、山下を、あるいは影見ハルコを知りたいと願う気持ちは、かつてのそれとは少し異なっている。彼らの人格を模倣してそれらしく振る舞うためではない。ただ、僕に贈り物をくれた雪平がいったい何を思っていたのか、日直を代わったくらいで山下が気まずげに謝ったのはなぜなのか、どうして上河原はいつも、僕をシュールストレミングみたいに遠ざけるのか。その意味を知りたいと思っている。

残念ながら友だちづくりは難航していた。彼らの名前さえすっかり忘れてしまっていたのである。雪平、上河原、山下。どうにか思い出せたのはたったの三人の名字ばかり。同級生の名前なんて高校時代にはすらすらと言えはずなのに、ゲームのセーブデータを消すようにすっかり消えてなくなった。

「まあ、ゆっくりね」

ハルコちゃんは呆れたような、それでいてやさしい声音でそう言った。

「あー、うん」

きょうこ。ゆきひらきょうこ。口に馴染ませるように何度か呟いた。雪平京子。名前はもう忘れない。顔はいっこう思い出せない。(まあ、ゆっくりね)穏やかな声を反芻する。

×

雪平京子がその公園を通りがかったのは、年の離れた中学生の弟に忘れ物の塾の月謝を届けるというミッションが発生したからだ。いまどき封筒で現金をやりとりしているなんて非効率だと思ったけれど、だからといって置きっぱなしにもできない。

そして、ミッションの途中で長物曜二郎と見知らぬ女子高生を目撃したのはただの偶然だった。

雪平の目に飛び込んできた光景に変わったところは一つもなかった。陽の光のもとで、穏やかな雰囲気でゲームの画面を覗き込んでいる一組の男女が目に入っただけだ。しかし、片割れが「あの」長物曜二郎だったので、雪平京子はびっくり仰天した。

ある年のバレンタイン、それなりに奮発したチョコレート(義理とおちゃらけながら淡く願うような、そんな)をガン無視した男こと、長物曜二郎。正確に言えば無視をされたのではなく、チョコレートの外装ばかりを褒めていた。確かに外箱も美しかったけれど、中身だって負けず劣らずツヤツヤ光っていたはずだ。

長物と女子高生は少し離れたベンチに並んで、携帯ゲーム機の画面をのぞき込んでいた。本当にただの友だちに見える。(ただの友だち?)(長物曜二郎に、これまで本当にそんな存在がいただろうか)あおみどり色のフェンスの向こう側、雪平の知らない長物曜二郎がいた。

(誰だろ)

雪平は思わず電柱のかげに身を隠した。そしてその瞬間。

ちゃあ、と足元が濡れた。

「あ!?」
「ん?」
「え?」

わん!

犬である。かわいらしいふわふわの真っ白な小型犬が、雄々しく片足を上げて電柱――ではなく雪平のジーンズに小便をしていた。間違えちゃったね。ほのかな温かさと水圧を感じながら、雪平の頭の中に三つのアラートが鳴りひびく。

その一、犬の粗相で濡れたジーンズ。このまま塾まで行く?
その二、犬の保護者らしき男の子。顔を真っ青にしてこちらを見ている。今にも泣きそう。
その三、びっくりしたような二人分の視線。思わず声を上げたせいで、長物にも女子高生にも気付かれた。

彼らに気付かれまいとしてとった行動のすべてが裏目に出ていた。たった一つの判断ミスがすべての行動を台無しにする。雪平はしみじみと実感した。まったく、生きることは闘いだ。
まず、いまにも泣き出しそうな子どもに微笑みかけた。うちのおにぎりがごめんなさい、と目に涙をためて謝る男の子に、「この子、おにぎりっていうんだ。かわいいね。ジーンズ買い換えようと思ってたから踏ん切りついた!」努めて明るく返す。嘘だ。本当は先月新調したばかりのジーンズだ。泣きたいのは雪平のほうだった。それでも、ここで罪のない子どもに泣かれるよりはマシだと判断したのである。この瞬間の雪平と言ったら、どの国のどの時代の参謀よりも判断力に優れていた。子どもは泣かなかった。おにぎり号は、へっへと舌を出して誇らしげに尻尾を振っている。

男の子は謝りながら、おにぎりはへっへと舌を出しながら去っていくのを、雪平はにこやかに手を振って見送った。背後に感じる二つの視線。判断力のボーナスタイムはここまで。どうしたらいいかはもう分からない。

「それ」

雪平にとって意外なことに、フェンス越しに話しかけてきたのは女の子の方だった。振り返ると、濡れたジーンズにジッと視線が注がれている。

「私、今日体育あったから、これ、どうぞ」

女の子はごそごそとスクールバッグから高校のジャージを取り出した。高校指定のイモっぽいジャージだ。二年前まで雪平も着ていたのだから抵抗はないが、残念ながら雪平は比較的背が高く、女の子が出したジャージでは小さすぎるかもしれなかった。

「大丈夫、家近いし」
「そうですか」

女の子は特に食い下がることはなくジャージを再びバッグにしまった。その間、長物はじっと黙っている。なんだってんだ、と雪平はかすかに苛立った。かつてチョコレートを贈ってきた女に年下の女の子と一緒のところを見られて気まずい? 犬に粗相された可哀そうな同級生にかける言葉も見つからない? 馬鹿にしないでよ、と喉の奥から絞り出したいような気持ちになった。理不尽だと分かっていながら長物を睨みつけようとする。

その瞬間だった。雪平京子! と、大きな声でフルネームを呼ばれたのは。
声の主は意味不明の箱男こと長物曜二郎で、なぜ今フルネームで呼ばれたのかも、なぜそんなに嬉しそうなのかも雪平にはとんと分からない。

「雪平さん? この人が?」
女の子が目をまんまるにした。うん、とうなずいた長物がふわりと笑う。

「久しぶり、雪平」
「え? は? はい」

いつもの雪平ならば「別に久しぶりじゃなくね?」とばっさり切り捨てていたが、長物のあの嬉しそうな顔を見たら駄目だった。(別に好きとかそんなんじゃないんだけどでもやっぱいいじゃん長物がちゃんと笑った顔ってなにげレアだし今日も大学で会ったこと一切覚えられてなくても全然平気だし?)などと早口の思考がコンマ一秒で脳内を駆け抜ける。かつて雪平が彼にチョコレートを贈ったのは、ただ彼の「なにげレア」な、ほころぶ笑顔が見たかったためなのだ。濡れた足元は冷え続けているが、なんだかいい気分だった。

「箱の人だ」

女の子が言った。あいにく、箱野郎は長物である。雪平はいい気分だったので丁寧に訂正した。女の子は虚無がちな表情をゆるめて「そうかも」と笑った。

「バレンタインにもらった箱、いま宝物なんだって」

バレンタインの箱、というのはツヤツヤのチョコレートが入っていた箱のことだろうか、と思い浮かべる。雪平は、その箱の色も形も覚えていない。きれいだったのは確かだが。
不意に、なにもかもが違うのだと雪平は悟った。向こうとこちら、あおみどり色のフェンスを隔てて生涯交わることがない世界なのだ。

「雪平さん、ありがとう。あの時は怒らせちゃってごめん」

長物が困ったように笑う。きっとこの男、なぜ雪平が怒ったのかまでは分かっていない。まあ、いいか。雪平も思わず口元をゆるめた。壁を壊して、言葉を尽くして理解し合う強い意志がなくても、友だちにはなれる。

雪平にそう思わせてくれたのは、実際のところ、長物の秘密を教えてくれた女の子の方だったが。

「名前、教えて」
「長物曜二郎! よろしく!」
「そっちじゃない。てかよろしくって何」
「私は影見日子。お日様の日にこどもの子でハルコ」
「ハルコちゃんね。こんど見かけたら声かけてもいい?」
「もちろん! あ、雪平さんって理科の選択なんだった? たまに宿題見てほしいな」

長物が僕は? と純粋な疑問を投げかけた。少女曰く、教え方が下手らしい。それは知らなかった。
不満げに口をとがらせる長物を見て、ハルコと雪平はフェンス越しに笑い合った。

長物 曜二郎
ナガモノ ヨウジロウ

好きな動物は犬!犬種とかはあまり知らない。

雪平 京子
ユキヒラ キョウコ

好きな動物は犬。見てる分にはゴールデン、飼うならなんでも可愛い。こういうのは縁だと思っているので飼ってはいない。

影見 日子
(カゲミ ハルコ)

好きな動物は猫。たまに公園にいる三毛猫、もしかして…オス…?