01. 箱 長物曜二郎の話
生まれて初めての贈り物は箱だった。
正確に言えば、物心ついてから初めての贈り物が箱だった。僕がまだ三歳か四歳のころ、いつもしかめ面の痩せこけた祖父が気まぐれに寄越した、煙草の空箱である。構造はキャラメルの箱と同じで、表面に鮮やかな錦絵が描かれている。朱色と紺色のコントラストは幼い僕の瞳に痛烈な印象を残した。煙草は入っていなかった。入っていたら、さすがの祖父も妻と娘による嵐の張り手に巻き込まれて天寿を全うできなかっただろう。さいわい祖父は注意深かった。九十までぞんぶんに生きて、眠るように世を去った。
以来、僕はずっと「箱」が好きだ。こんなに素敵な贈り物を、僕も誰かに贈ってみたいと思っていた。
中学のある冬の日、クラスメイトの女子から箱をプレゼントされた。確か、中に。何か入っていた。中身は覚えていない。贈り物の箱を僕は無邪気に喜んだ。ただ、彼女にとって僕の反応はどうやら想定と違ったらしい。ひどく怒っていたような記憶がある。ともかく、箱は見事だった。蓋には星をモチーフにした金色の箔が押されていて、夜空の色の紙箱を特別なものにしていた。名前も知らない女の子の、素敵な贈り物だけが僕の心に焼き付いて離れなかった。
箱、箱、箱。引き出しに入れた空っぽの箱たちを姉は知らない。父も母も知らないだろう。祖父だけは知っていた。白いベッドサイドで喉の奥から空気を漏らしながら「あの箱、どうした」と聞かれて、僕は箱のコレクションを勇んで見せた。彼は驚いてもいたし、多分、喜んでもいた。祖父が死ぬちょうどひと月前のことだ。
高校に上がるころにはもうはっきりしていた。僕は「空き箱」が好きなのだ。けれどそれは異端だった。
とかく人類は隙間にものを詰めたがる。パンの切れ目にさえソーセージとザワークラフトを詰め込むような狂人たちを前に、僕はうまく狂人を演じられるようになっていた。
プレゼントの本質は外側ではない。星の箱、月の箱、すべて、中身を抜いたら捨てるもの。――実際のところ、そんな所業を繰り返すたび手のひらから宝石がこぼれ落ちていくような虚しさがあった。本質。何が。
箱そのものに価値を見出す人間はほとんどいない。大事な宝物を、剥ぎ取られるためだけに他人に明け渡す日々。祖父のいない白いベッド。夜空の箱の展開図。
切れ目の入ったパンにソーセージを期待するように、ガムテープを剥いでダンボールを覗き込むように、人は僕にも”何か”を期待しているようだった。それがたまらなく恐ろしい。
僕には何もない。それは誰よりも僕がいちばん分かっている。
本質を持たない人間に贈り物などできるはずがない。気付き、打ちひしがれ、寒々とした絶望を抱いたのは高校二年の秋のことだった。
影見ハルコと出会ったのは僕が大学一年の頃、彼女が高校一年だった頃だ。日の子と書いてハルコと読むらしい。街なかで偶然知り合った僕たちは、妙に意気投合して友だちになった。ハルコちゃんは、音楽が好きだけど詳しくはない。ゲームは苦手で、一人用のゲームで行き詰まると僕に進めさせる。すまし顔のわりにはそんなに気長じゃない。すまし顔のまま焦ったり怒ったりしている。
影見ハルコは僕に何も期待していないように思えた。僕は相手の望むまま優しい先輩や可愛い後輩を演じてきたので、はじめ、これは困ったことになったと思ったものだ。どう自分を演出したらいいものか分からない。しかし人間とは不思議なもので、慣れれば案外、ピッタリはまる。結果として僕とハルコちゃんの関係はいたって良好なところに落ち着いていた。
あまりに彼女との関係が穏やかなもので、ふと、魔が差したのだ。
あるいは自傷行為じみた実験と言ってもいい。彼女に空箱を贈ったら、彼女はどんな反応をするだろうか。自分の唯一の宝物を、ついこの間出会ったばかりの少女に与えてしまう。そんな馬鹿げた行為を実行することにした。
待ち合わせもしていない火曜日。公園の青いベンチにぐでりと身体をあずけた少女に、無地の紙袋を差し出した。
「日子ちゃん、これ」
「なに?」
「プレゼント」
紙袋を渡して微笑みながら、僕は努めて穏やかに言った。裏腹に心臓は早鐘を打ち、今にも口から飛び出しそうだ。
紙の音、取り出したのは僕の原点とも言える煙草の空き箱。保存状態はすこぶる良いけれど、いかんせん古いものである。ハルコちゃんはきょとんとしてこちらを見た。
「私に? これを?」
「うん」
ああ、と目を細める。
――――影見ハルコは箱を、開けてしまった。
期待など微塵もしていなかったはずなのに、僕は落胆していた。彼女はたまたま会っただけの、ちょっとウマの合う女の子ってだけだ。諦めろ。僕の直感が外れただけで、悲しむようなことじゃない。
色を失くした世界に、ハルコちゃんの声が響いた。「ありがと!」うつむきかけていた顔を上げると、少女は普段のすまし顔を忘れたかのように目を輝かせている。空っぽの箱に、彼女は失望していなかった。
「古そう。本当に貰ってもいい? なんで急に?」
「うん……うん。ハルコちゃんに持っててほしい。僕もジイちゃんに貰ったし、ジイちゃんも誰かに貰ったらしいよ」
「一子相伝かよ~」
貰いものだ、という話は、祖父の葬式のあとで祖母から聞いた。彼は初恋の人から渡された贈り物の箱を後生大事にとっていたらしい。そんなものを気まぐれに孫に寄越すなんて! しかし、結果として僕という空箱蒐集家の手に預けたのだとすれば、祖父の判断はまったく正しかった。僕はただのからっぽの箱に過ぎないそれを、鍵のかかる引き出しに入れて大切に愛でてきたのだから。
「絵、すごく綺麗。大事にされてたみたい」
そう、大事にしていた。鮮やかな錦絵も、側面に書かれたなにやらいかめしい煙草の名前も、白茶けた紙の色、ざらついた質感、蓋の裏側に書かれた日付のメモ、その祖父の筆跡も、ぜんぶ。
「分かる?」
「もちろんじゃん」
ひひ、とハルコちゃんは口角を上げた。ハルコちゃんがこんなに喜んでいるのを見るのは初めてで、心をくすぐられる。
いつもしかめ面をしていた祖父も、僕に譲ったときにはこんな気持ちになったのだろうか。僕は楽しげな友だちの顔をずっと眺めていた。
現在大学二年生。人間観察は趣味ではなく生活実用。
一度は必ずヒコと呼ばれる。積極的に訂正はしない。