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06.ラーメン まことその通り

 帰りたい。心の中でそう呟いた。

 上河原猪蝶は、長物曜二郎とつるむようになってから日に日に住まいのワンルームアパートメントへの愛着を増している。(俺を真の友と思うのならば早く家に帰らせるべきだろうに)そう懇願したところで長物は微笑みながら首をかしげて俺の首根っこを掴むのだろう。真の友などと思ってもいないからだ。

 長物の正面に立つ壮年の男性は、丸こい眼鏡の奥からこちらを見定めていた。
 突然ぐっと気温が下がった秋の、陽の落ちた時間。それなりに騒がしい駅前で、その男の周りはシンと落ち着いていた。ベージュのスラックスにコーデュロイ素材のジャケットを羽織って、影見ハルコの隣に自然に寄り添う。
「こんにちは!」
 娘の後ろからひな鳥のように大人しく付いてくる男連中を見て、どう思ったかは知らない。
 俺と長物を交互に見て、それからのんびりとした風情でまなじりを下げた。
「どちらが長物くんかな。いつもハルコと遊んでくれてありがとう」
 いつもはることあそんでくれてありがとう。呪詛だ。いいや、笑顔だし、含みはない。大丈夫だ。
「長物は僕です。いつもお世話になってます」
 にこ。長物がほほ笑む。
「パパ今日早いね」
「まあね。昨日ちゃんと頑張りましたのでね」
 あはは、と笑いながら頭をかく男は一見優しそうだ。しかし、娘がつるんでいる謎の男子大学生相手にも優しくしてくれるだろうか? 頼む、さあれかし、と上河原はまぶたを閉じて天を仰いだ。せめて己だけでも助かりたい。やましいところは一切ないが、そこはそれ。一般的な父親というものがどういう思考回路をしているか想像くらいはできる。
 
 ×
 
「夜ご飯、屋台でラーメンだってパパが。特別。もう駅だって」
 ハルコは電話から耳を離すとウキウキした様子で立ち上がった。上河原も少しはこの少女の表情が分かるようになった。たぶん慣れだ。お互いに。
「今どき珍しい」
 メッセージアプリでサークルの集会に欠席連絡を入れながら答える。幽霊部員だが、退会するのも億劫で何となくそのままになっているのだ。荷物をごそごそやっているハルコを尻目に、上河原はのっそりと立ち上がる。風の肌寒さに、ほんのりと秋を感じた。

 ベンチに浅く腰掛けてだらけていた長物は、何がそんなに楽しいのか卒然にこにこしながら座り直して身を乗り出した。
「屋台のおでん、昔マンガで読んで気になって、探し回ったことあるよ。結局迷子になって終わっちゃったけど」
 いいなぁいいなぁ。長物はしきりに羨ましがっている。「じゃあ来る?」ハルコがすっきりと尋ね、長物は「うん!」と答えた。あまりにもスムーズなやりとりだったので、上河原は耳を疑うことすらしなかった。数秒かけて事実が脳に染み込むにつれ、やっと違和感に気付き始める。振り返る。スニーカーのかかとが湿った土をえぐった。
「……夜ご飯?」
「そ。ひさびさの外食だよん」
 ピース! ではない。
「パパと?」
「そうだけど? ラーメンの屋台って全然ないしけっこう貴重だよね」
「長物も?」
「ご相伴に預かりまーす」
 ナマステ~、ではない。
 女子高生の父親と、どこの馬の骨とも分からん男子大学生。すすんで会いたい類の人物ではないはずだ。それはもう、お互いに。
 それとも俺が間違っているのだろうか?
「もしかして上河原さんも行きたい?」
「――――いっ……」
 きたくない。
 少女の誘いゆえなるべく丁寧に断ろうなどと仏心を出したのがよくなかった。
「行こう!」
 お断りの言葉を続けようとした瞬間、長物が笑顔でねじ伏せたのだ。コイツ、多分わかってやっている。高校時代は猫かぶり、言葉を交わすようになってしばらくの間は慣れない野良猫の様子だったのに、日ごと図々しくなっていく。思い切り睨みつけてやったのに、長物はもうこちらを見てもいなかった。
 
 そして呪詛である。もとい、あののほほんとした歓迎の言葉である。
「どちらが長物くんかな。いつもハルコと遊んでくれてありがとう」
 ハルコの父親は穏やかに笑った。
 
 駅前で落ち合ったハルコの父は、今から屋台を探すのだという。始めは駅の南側で見かけたが、子どもたちの合流を待つ間に移動してしまったのだと。あとはチャルメラの音を頼りに捜索するらしい。
「珍しいだろう」
 柔和なまなざしが、娘の友人への気遣いを感じさせた。
 実のところ上河原も屋台でラーメンを食べた経験はない。音はすれども姿は見えずの都市伝説のようなものだと半ば本気で思っている。ゆえに、状況さえ異なれば上河原ももう少しワクワクできたのだが。
「ハルコ、ええと、こちらは?」
「上河原さん。ゲームの」
「ああ、ゲームの」
 ゲームの、で通じる程度に話題に出されているらしい。
「上河原さん。ハルコのこと、いつもありがとう」
「ありがとう! というわけで今日はパパのおごりでーす」
 ピース。ハルコは珍しくはしゃいでいるようだった。お父上の機嫌を損ねるような発言は謹んでほしいと切に願う。
「いやいや、もう俺はお気持ちだけで……」
「ごちそうになりまーす!」
 ナマステ~、ではない。以前はカメレオン野郎だったくせに、この男はすっかり空気が読めなくなった。「読まなくなった」ようにも思う。
「あっ! いた!」
 ハルコの父は子どものようにはしゃいで前方を指さした。大きく「らあめん」と書かれたのれんは年季が入っている。ちょうど客足が途切れたところらしく、移動の支度を始めていた。
「走れ!」
 言い出した父親が最初に走り出す。「わ」「え、はや」目を丸くする子どもたち。娘はため息を吐きつつも小走りであとを追う。一足先に屋台に追いついた父親はなにやら身振り手振りをしながら店主と談笑している。しばらくして「わははっ」とひときわ大きな笑い声があがった。何を話しているのやら。
「ハルコ、みんな、早く! 私が注文しちゃうぞぉ」
「選ぶようなメニューないよぉ。中華そばとメンマとタマゴしかないからねぇ」
 えー、チャーシューは? あるよ! わはは。
 オジサン二人、楽しそうで何よりである。

 乾いた空気に夏の名残はもはやない。しかし、いざ着ぶくれる冬になれば、こんなものは序の口だったと懐かしむのだろう。さらに、屋台の内側には別世界のような熱気が立ち込めている。
「しばらくはね、君たちのことを同級生だと思ってたんだ」
 ハルコが友達と言っていたから。そう言って父親は豪快に麺をすすった。
 飴色のスープが橙がかった電球に照らされてキラキラと輝いている。味は濃い。塩辛くはない。柔らかな魚介の風味だ。
「君たちが大学生だって知ってたまげたよ」
 それはそうだろう、と上河原はこころの中で頷いた。
 ハルコは父親そっくりのやり方で麺をすすり、スープの風味を堪能してから口を開いた。
「聞かれなかったし、友達は友達だし」
「そうみたいだね」
 父は素直にうなずいた。
 
「うたぐったりしないんですか、僕たちを」
 長物が心底意外そうに尋ねる。失礼なヤツだな、と心のなかで文句をいいながら、上河原も同じことを思っていたので沈黙を保った。
 親子が首をかしげた。「僕たちがハルコちゃんを騙していて、悪いことを考えてるかも」長物は付け加える。
 それでも顔を見合わせて不思議そうにしているので、今度は上河原が「あんまり、人を信用しすぎないほうがいいと思います。親子ともども」と付け加える。これでは長物とどちらが失礼だか分からない。
「あのね、そうか、知らないか。ハルコはすごく疑り深い子だと思うよ。のんびりして見えるけど」
 うんうん、と父親は頷いた。
「私が『こう』だからね、父子家庭だからしっかりしなきゃと思うみたいで」
「考えすぎ」
 ハルコの抗議を最後に場がシンと静まり返ったので、ハルコの父親はきょと、と娘に視線を落とした。「父子家庭ってまだ言ってなかった?」「ん」「ごめん」「ううん」。また沈黙が戻る。
 そうなんだね、と長物がかすかな声で呟いた。
 沈黙が満ちるなか、店主は上河原の前にメンマの小鉢を置いた。何故。まあいいか。上河原は目礼してそれを引き寄せた。
 こういう時、曖昧に微笑むのも、同情して眉を下げるのも違うような気がする。かと言ってかけるべき言葉もない。最適解が分からない。人間がすべからく2という数であればいい、とは教養科目を担当する教授の言だ。上河原猪蝶という人間は11らしい。意味不明。あの科目とは今期かぎりでさよならだ。ざくり、とメンマの繊維に歯を立てる。
 
「僕とはしたことないよね、そういう話」
 上河原は長物の姿勢にいっそ感心してきた。こいつひょっとしたら2かもしらん。どうですかね、教授。11の上河原が口を挟めることは何もない。大人しくメンマを賞味する。繊維がふかふかしていて、肉厚で弾力がある。深夜のキッチンで空腹に負け明かりもつけず食う瓶のメンマにもそれなりの趣がある。一方これは明るい太陽のもとを行く道徳的メンマだ。「どうよぉ」店主のお伺いにうなずいて親指を立てると、老店主は親指を立て返した。
「しないよ。友達とは。別に黙ってたわけじゃなくて、しないからしなかっただけ」
 ハルコはやっぱり淡々と言った。
 ゴホン、と彼女の父親はわざとらしく咳をしてふたたび口を開いた。
「まあその、そういうわけだから、この子と仲良くしてくれると嬉しい」
「それはもちろん」
 長物は肩の力を抜いていつもの気の抜けた笑みを浮かべた。そこで初めて、この男も多少緊張していたんだなと気付く。
 ひょっとすると、二つ返事でハルコの誘いに乗ったのにも長物なりに理由があるのだろうか。
 
「上河原くんもね」
 突然スポットライトを浴びた上河原は、慌てて噛んでいたメンマをのみこんだ。
「私はゲームはさっぱりだから、ハルコに付き合ってくれてありがとう。妻は得意だったんだけど……」
「いえ……」
「たしか、上河原くんはアイドルのゲーム? が好きなんだよね?」
「――――…………はい」
「あ、あれ? 違ったかな」
「――――…………違いません。アイドルのゲームが、好きです」
「う、うん……」
 突然影を濃くした男を扱いあぐねて、父親はふたたび長物に水を向けた。
「長物くんはほら、前にハルコに箱をくれただろう。古いマッチ箱みたいな」
 父親の言葉に、長物はパッと喜色を浮かべた。
「祖父にもらったんです。あの色づかいと形がとても好きで――」
 それから、身を乗り出してしまった自分を恥じるように少し視線をさまよわせた。「あー、」意味のない繋ぎの言葉が漏れる。
「まあその、僕は、あの箱が好きで。単なるカラ箱でも……」
 
「私も好き」
 長物は嬉しそうに表情をやわらげる。
 ハルコは、チラリと視線を向けたあと、スープばかり残ったどんぶりに視線を落とした。
「あの箱の絵も好きだし、長物がくれたものだし」
「君がくれたことに価値がある、と言ってます。この子は。勉強机に大事に飾っていて」
 ハルコが父親の二の腕をグーで小突いた。結構な勢い、しかも無言。
 むこうを向いた長物の後頭部を眺めるだけでどんな表情をしているのか分かる。こと〝親友〟に関し、長物は分かりやすい。
 上河原はげんなりしながらも心のどこかで安堵していた。
 箱の話は初めて聞いた。たぶん、こうして彼らは親友になっていったのだ。あくまで上河原の予想だが、ハルコが箱を大切にするのは「カラ箱」だからではないし、長物はそれを分かっている。それでも、なのだ。恐れ、ためらいながら一歩ずつ。横たわる無限は越えられないと知ってなお。
 微笑ましく三人を見つめていた上河原の前に、コト……と小鉢が置かれた。半分に割られた煮卵、美しい黄金色の黄身が覗いている。見れば、知らぬ間にツレの前にも、親子の前にも。驚いて顔を上げると、老店主がまなじりを下げた。
「サービスぅ」
 こうして、初秋の夜は穏やかに過ぎていった。
 
 後日、くだんの教授は長物曜二郎を見つけた。ほどほどの真面目さと同じくらいの不真面目さをあわせもつカモフラ野郎なので講義中に指名されづらいタイプなのだが、光るものがあったのだろう。
 あるいは、前方一直線の学生全員が居眠りをしていたせいかもしれない。嫌なビンゴゲームだ。
 おお、君! 教授が感嘆とともに息を吐く。君は――――。
 
 42だね。

 2、とは一体。

影見 日子
カゲミ ハルコ

ラーメンはやっぱり醤油ではなかろうか、しかし屋台の中華そばの美味さと言ったらこれはもう、魚介に加えて金のスープの奥底にひそむ椎茸の風味、分厚くはないが肉感のある叉焼、ザクザクと歯ごたえのあるメンマ、香り高い刻み葱とたまごの風味が強いツルツルの縮れ麺。至福なのである。

上河原 猪蝶
ジョウガワラ イチョウ

アイドルのゲームをやっていることに不要な罪悪感を覚えている。

長物 曜二郎
ナガモノ ヨウジロウ

チャルメラを追って迷子になったあと、ひとしきり泣いた長物少年は「よし、帰るか」と立ち上がり自力で交番へ向かった。